● 6月2日に 使徒の働き10章1~43節から 「あの人にも」 と題して語られたメッセージより

 

□ 使徒の働き101~35節  聖霊に導かれるままに

 当時、地中海を取り囲む広い地域にユダヤ人が住んでいました。そのユダヤ人の律法に根差した生活と彼らの信じる唯一の神に魅かれて会堂に出入りしていた異邦人の一人がコルネリオです。コルネリオは神を畏れ、ユダヤ人たちに多くの施しをしていたと記されています。このコルネリオが、幻の中で「ヨッパにいるシモンを招け」との御使いの声を聞いたのが午後3時の祈りの時間でした。その翌日、ペテロもまた12時の祈りをしようと屋上に上っていた時に不思議な体験をします。律法で禁じられている汚れた動物が入っている大きな入れ物が四隅をつるされて降りてくるのを夢心地に見るのです。そして「これを食べよ。神がきよめた物をきよくないと言ってはならない」との声が聞こえてきます。そんなことは到底できることではないと拒もうとするペテロのところに、コルネリオから遣わされた使いの者が到着します。まさにその時、「ためらわずに、彼らと一緒に行きなさい。彼らを遣わしたのは私だ」との聖霊のうながしがあります。当惑しながらもそれを受け入れ、使いの者に連れられて行ったペテロが見たものは、そこに呼び集められていたコルネリオの親族や親しい友人たちでした。彼らは、主がペテロに命じたすべてのことを聴こうと神の前に立っている人々でした。家に入ることも、食事をすることも禁じられていた異邦人たちがペテロを待っていたのです。ペテロはこの時すべてを悟ります。「神がきよめた物をきよくないと言ってはならない」との意味を。

 ペテロが聞いたのは、ユダヤ人なら誰もが関わりをもちたくない人のところに行けとの命令でした。ペテロの感情はそれを許しません。しかし、聖霊のうながすままに出ていったペテロを待っていたのは、すでに聖霊によって整えられていた人々でした。感情が許さない時があります。しかし、聖霊がうながすままに出ていく時に、私たちもまた神が備えられた人のところへと導かれていくのです。 

 

       神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。使徒の働き1015 

 
□ 使徒の働き1034~38節  すべての人に平和をもたらす主 

 ペテロが確信して語った冒頭の言葉は「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を畏れかしこみ正義を行う人なら、神に受け入れられる」という福音そのものです。神はユダヤ人だけでなく、すべての人を受け入れられるのです。ただ一つだけ、「神を畏れかしこみ、正義を行う人」であればということです。神を畏れ正義を行う人とは、コルネリオがそうであったように「神を畏れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしている人(Act10:2)」です。一体どのような人でしょうか。

ユダヤ人は寡婦や孤児たちに施しをしました。しかし、あくまでもユダヤ人の寡婦や孤児に対してであって異邦人はその対象外でした。ユダヤ人にとって、同胞は共同体を形成する上で極めて重要な存在だったからです。異邦人であるルカはこのようなユダヤ人の考え方に敏感だったのでしょう。ルカ福音書では、律法の専門家に対してイエスが語った「善きサマリヤ人の譬え」を通して、「隣人とは助けを必要としている者を偏見や過去の歴史を越えて助ける者だ」という、民族の隔てを越えた新しい隣人観を伝えています(Lk10:25~37)。つまり、異邦人であるユダヤ人に施しをするコルネリオこそ、イエスが伝える「隣人を愛する」という律法に生きていた人だということです。コルネリオは、神を愛し、その信仰の実として、隣人を愛するという神の国の律法にすでに生きていた人でした。異邦人であっても、神を畏れかしこみ正義を行う者を神は受け入れ、聖霊を注いで救いの完成へと導かれるのです。これが異邦人ルカが伝えようとしていることです。憎しみ合う民族を一つにするこの平和の福音が、イエスによってガリラヤからユダヤ全土に伝えられていったのです。そして、今 私たちにも伝えられているのです。 

 
   神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。

   このイエス・キリストはすべての人の主です。            使徒の働き1036

 

□ 使徒の働き1039~43節  私たちはそのことの証人です

ペテロは「人々はこの方を木にかけて殺した」と語ります。申命記2122~23節によると「木にかけられた者」は神に呪われた者です。ペテロは当然そのことを知っていたでしょう。旧約聖書には、呪いと祝福が対になって出てくる箇所が多く見られますが、ユダヤ人にとって神が共にいてくださることが祝福ですから、呪われた者とは神との交わりから断たれた者ということです。もうお分かりでしょう。父なる神と分かち難く一つになっていたイエスが、その豊かな交わりから完全に断たれたのです。これが十字架の本質です。神に背を向け、神から離れて生きてきた者が負わなければならない「神との永遠の断絶」を、イエスは私たちに代わって十字架で受けて下さったのです。

そして神はこの方を復活させられました。私たちが受けるべき呪いが完了したことが、復活によって明らかにされたのです。この復活されたイエスがペテロたちに何度も現れて命じられたことは、イエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをすることでした。

 神が聖霊と力を注がれたこの方は、ガリラヤからユダヤ全土を巡り歩いて、悲しむ者たちに寄り添い、ユダヤ社会から疎外されていた者たちと共に食事をし、悪霊に支配されていた者たちの魂と体を解放されました。この方の生き方の中に、聖霊によって生きる者の姿を見ることができます。このイエスがやがてすべての人に問う時が来ます。その時イエスが問うのはただ一つ「あなたは私のように神と隣人を愛しましたか」ということです。この方が十字架でなさったことを信じ受け入れるとき、神が共におられるという祝福とともに、この方のような生き方が始まるのです。この方以外に、私たちを新しくできる者は誰もいません。

 

           だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

           古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。  第Ⅱコリント517

 

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