ヘブル13章14節から 「天の都を求めて生きる」 と題して語られたメッセージより


□ ヘブル人への手紙1314節  永遠の都を目指して永遠の都に生きる

 この聖書箇所は、ローズンゲン283版の「今年の聖句」です。今までお話してきましたアブラムは約束の地カナンを目指して旅立ちました。同じように、私たちにとっての約束の地は「永遠の都」です。私たちクリスチャンは、この「永遠の都」を目指して旅立った者たちです。旅立ったということは、今まで生きていた世界を後にして出てきたということです。そのことを覚えなければなりません。今まで生きてきた世界とはどんなところでしょう。「今までの生活」「今までの待遇」「今までの苦々しい体験」「今までの祝福された生活」「今までの楽しい思い出」「今までの価値観」などなど。「永遠の都」を目指して旅立つとは、過ぎ去ったそれらのことをふり返って執着するのではなく、毎年毎年、それらのことを次々に後にしながら、もっと素晴らしいものを見て前に進んでいくということです。そのことをはっきりと自覚しなければなりません。

では、私たちが目指している「永遠の都」とはどんな所でしょうか。マタイは「天の御国」と表現し、マルコとルカは「神の国」と表現しています。表現は違いますが、私たちが後に入ろうとしている永遠の都とは「神が共におられる場所」です。永遠の都は、この地上にはなく後に来ようとしているものですが、実は、今ここにあるのです。聖霊によってイエス・キリストが私たちの内に住んでいて下さいますから、このイエス・キリストがおられるこの場所が「永遠の都」なのです。私たちは、来るべき永遠の都を求めていますが、すでに永遠の都に住んでいるのです。毎日、色々な出来事がありますが、私たちは永遠の都を先取りして、すでに永遠の都に住んでいるということをはっきりと覚えたいものです。未だ、永遠の都には住んでいないけれども、すでに永遠の都に住んでいるのです。あなたは、信仰によってそのことを実感しておられますか?

     

      神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。ルカ17章21節

 

 

□ コリント人への手紙(Ⅰ)43~5節 評価は神に

 主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。この聖書箇所から「あなたのしたことは、スクリーンに映し出されるように暴露されるのです。だから、悔い改めて、きよい生活をしなさい」という説教を若い時に聞いたことがあります。神が怖くなり、恥ずかしく惨めな思いで神の前に立たなければならない自分を思い浮かべて喜べなくなりました。その説教を聞いた私は、み言葉に生きることが喜びではなく、怖れからの強制になってしまいそうでした。しかし福音は、本来怖れを生じさせるものではありません。

5節の最後の言葉は「そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」です。ここで称賛と訳されている言葉は、神をほめたたえる時にも使われる言葉ですから「やみの中に隠れた事」とか「心の中のはかりごと」というのは、称賛されるべきことであって責められることではありません(このことについては次回に)。パウロが言わんとすることは、人からどのような評価をされようとも、神の前に誠実に生きたあなた方には神からの称賛が届くのだから、主があなた方を評価する前に自分で評価してはいけないということです。パウロは自らの体験を通して、その根拠を4節で述べています。主のために生きたパウロは「自分にはやましいことは少しもない」と思っていました。しかし、「自分が無罪とされるのではない、私を裁く方は主だ」と言っています。原文には「私が正しいとされているのではない」と記されています。ここで間違ってはならないのは「裁く」という言葉が「吟味する」という意味をもっている言葉だということです。つまり、自分では正しいと思っていても、自分を吟味されるのは主なのだから、自分のことは勿論のこと、主が来られるまで早まって評価判断してはいけないと言っているのです。教会の中で人から批判され傷ついている人がたくさんいたのでしょう。そういう人たちにパウロは語っているのです。実はパウロもこの時、「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない」という厳しい評価を受けていました。パウロは宣教の動機において少しもやましいところがないと思っていましたが、それでも、自分が神の前に正しいとされているわけではないと、自分を吟味して下さる主にゆだねているのです。パウロにとっては「人が自分をどう見るか」とか「自分が人をどう見るか」という人間の評価はどうでもよいことでした。あなたは、人の評価や自分の価値観に支配されていないでしょうか。

 

    

    キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされ

    ませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、

    おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

                         Ⅰペテ22223

 

 

□ コリント人への手紙(Ⅰ)45節  心を見る神

5節後半に「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。」と記されています。ユダヤ人であるパウロは、詩篇によく見られる並行法を用いて二つの表現で同じことを言っています。そこで気になるのが「はかりごと(boule)」という言葉です。日本語では「計略・陰謀・策略」など悪いことを計画する時に使われる言葉ですが、文脈から判断するとこれは称賛されるべき良いことですし、原語の boule は日本語のようなニュアンスはなく「思い・意図・熟慮」という意味で「神の御心」という時にも使われる言葉です。つまり、パウロがここで言わんとしていることは、人は私たちのしたことを表面的に判断しますが、神はその言動の動機となる人には見えない私たちの思いや意図、私たちが神や人のために熟慮したことを見ておられ、それを明らかにして称賛して下さるということです。

パウロは、同様のことを第Ⅱコリント510節で「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」と記しています。この箇所で、善(agathos)と悪(phaulos)という言葉に道徳的な意味を読み込んでしまいますと理解できなくなります。悪に対する報いは罰しか考えられませんから、そうだとしたら、イエス・キリストの十字架が無駄であったことになるからです。本来、善(agathos)という言葉は「完全で美しい・有益な」という意味をもっており、それと対比されている悪(phaulos)「不完全な・役に立たない・ちっぽけな」という意味です。つまり、私たちクリスチャンが神のために為した一つひとつのことは、どんなに小さく不完全なちっぽけなことであったとしても神はそのことを覚えておられて、それに報いてくださるということです。何と感謝なことでしょう。「永遠の都」への入り口である法廷は、私たちクリスチャンが神から称賛を受ける場所なのです。益々、神を信頼して歩もうではありませんか。

 

    主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも

    明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。  

                         第1コリント45 

 

□ローマ人への手紙 141012節  天の法廷は賛美集会

10節のさばきの座に立つとはどういうことでしょうか。問題は、この「さばき」という言葉が文脈から離れて独り歩きすると福音が見えなくなることです。確かに、「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになる」と書かれています。しかしパウロはイザヤ書4523節を引用し、さばきの日は「すべてのひざが、わたしの前にひざまずき、すべての舌が、神をほめたたえる日だ」と言っています。さばきの座bemaとは法廷のことです。つまり、法廷が神を賛美する集会になるというのです。それだけではありません。さばきの座は王座を指す言葉でもあり、立つparistemi は「説明する/証明する」という意味です。そして12節の「言い開きをする」は単に「言葉を語る」という意味ですから、一人ひとりが神の王座の前で、自分がどのように仕えてきたかを説明することになるというのです。不完全でしたが、あなたの前に私はこのように生きてきましたと報告する時なのです。こんな罪を犯しました、あんな罪を犯しました。あなたの前に出る資格はありませんと自分を責める時ではありません。放蕩息子は心の中で練習しました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。しかし、父親は「雇い人のひとりにしてください」という言葉をさえぎるように、一番良い着物を着せ、跡継ぎのしるしである指輪をはめるのです。私たちもそのように永遠の都に迎えられるのです。

 法廷で明らかにされるのは恵みによって赦されたことです。このこともあのことも赦されていたと、感謝と感動でいっぱいになって主を賛美するのです。主はその時「良くやった忠実な良い僕だ」と私たちの労をねぎらって下さいます。ですから、主人を怖れて1タラントを土に埋めた者になってはいけません。報いから漏れる者がいるとしたら、神を恐れて、神のために生きようとしなかった人です。クリスチャンにはそういう人は一人もいません。誰もが神のために生きたいと思い、不完全ですがそのように生きているからです。報いから漏れる者は誰ひとりいません。さあ、安心してこの礼拝から出て行きなさい。

 

    主は、私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、

    私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

    天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

    東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

                               詩103:1012

 

 

 

ヨハネ12章1~11節から 「最も価値あること」 と題して語られたメッセージより

□ ヨハネ1217節  あなたはイエスにどれほどの価値を

この時、イエスはエルサレムで行われる「過ぎ越しの祭り」を目指していました。群衆もまた、イエスを一目見ようと、過ぎ越しの祭りにイエスが来るのを待っていました(Jn11:55-56)。群衆だけではありません。祭司長と律法学者たちも、イエスが過ぎ越しの祭りに来るのを待っていました。しかし、みんな目的が違っていました。群衆は、ラザロを生き返らせたというイエスを見ようと。祭司長やパリサイ人たちは、イエスを殺そうと過ぎ越しの祭りを待っていました。そしてイエスは、殺されるために、過ぎ越しの祭りを目指していました。既に、祭司長たちが「イエスがどこにいるかを知っている者は届け出よ」という命令を出していていた時でした(Jn11:57)。イエスの居場所を通報する者がいれば、いつ捕らえられてもおかしくない場面です。1節を見ると。時は、過ぎ越しの祭りの六日前。つまり、イエスは、最後の安息日をマリヤ・マルタ・ラザロと共に過ごされていたということです。場所はベタニヤという村。捕らえられる原因となった、ラザロを生き返らせた危険な場所でした。

そこでマリヤが用意したのは、純粋なナルドの香油300グラム。それは価格にすると、およそ300日分の日当。今で言えば200万~300万円ほどでしょう。マリヤは、この香油をイエスの足に塗りました。ぬぐわなくてはならないほど、惜しげもなく香油を注ぎました。それを髪の毛でぬぐったのです。これも普通のことではありません。髪の毛はユダヤ人の女性にとっては人に触れさせないほど大切なもの。その大切な髪の毛でぬぐうということは、死んでいた弟ラザロを、彼女のもとに返して下さったイエスに対するマリヤの最高の行為です。それをちっとも惜しいとは思わなかったのです。それほど、マリヤにとってイエスはかけがえのないお方でした。何にも代えることが出来ないほど、マリヤにとって価値のある尊いお方でした。その一方、イエスの価値が分からないユダには、マリヤのしたことは「愚かな浪費」にしか見えなかったのです。価値が分からない者には、「イエスに対して払う犠牲」は愚かな浪費でしかありません。私は、イエスにどれほどの価値を見い出しているのか…。クリスチャンであろうがなかろうが、聖書を読んでイエスを知った人にはそれが問われているのです。

 

  わたしはあなたのために、このことをした。あなたはわたしのために何をしたか。

    Dominico Feti Ecce Homo(この人を見よ)という作品の下に記されている言葉

  

 

□ ヨハネ121~7節   君もそこにいたのか

この、マリヤが注いだ香油を、イエスは「マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていた」と解釈します。イエスは「今、私を葬っているのだ」と意味づけたのです。イエスが十字架につけられるなど、誰一人として想像すらできない時にです。勿論、著者のヨハネもです。90歳を過ぎたであろうヨハネは、60年ほど前のことを思い出しながらこの福音書を書いています。イエスがあの時に語ったあの言葉の意味を、再びかみしめながら書き記しているのです。「あの時、イエスは殺されて葬られることを覚悟していたのだ」と。

イエスは十字架で殺されて葬られたのです。祭司長たちは、願い通りにイエスを殺すことに成功しました。ユダヤ教の指導者たちなのに、神を讃える者とは真逆の「殺人者」となってしまいました。イエスの葬りは、神に背を向ける者たちの究極の反逆をイエスが引き受けた証しです。神を殺すという、それ以上の反逆はありません。葬りは、イエスが神への反逆を余すことなく受け切ったということです。息の根が絶えるまで殺され尽くしたということです。祭司長や律法学者たちは、取り返しのつかないことをしてしまったのです。

ペンテコステ以降、弟子たちの説教の中心は「あなた方がこのイエスを殺した」でした。この説教によって、「私がイエスを殺した」と心を刺される者たちが悔い改めました。イエスを殺すという、取り返しのつかないこの出来事がなければ、悔い改めることができなかったのです。十字架は、「自分のしていることに気づけ」というイエスの最後のメッセージです。

ヨハネは気づいたに違いありません。自分も、イエスを殺したのだと。イエスが捕らえられたその時、恐くて逃げ去ったヨハネは、あの時自分がイエスを見殺しにしたのだと。十字架のイエスを目の前にして沈黙していた自分は、イエスを殺したのだと。聖歌400番は「君もそこにいたのか。主が十字架につくとき…」と歌います。私はイエスを殺した。これが分かる者に十字架が福音となります。あなたは…。

 

君もそこに居たのか 主が十字架につくとき

君も聞いていたのか 釘を打ち込む音を

君も眺めてたのか 血潮が流れるのを

君も気が付いたのか 突然日が陰るのを

君も墓に行ったのか 主をば葬る為に

   ああ、何だか心が震える 震える 震える

 君も墓に行ったのか 聖歌400番より

   

 

 

 

 

 

 

 

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