● 創世記19章30~38節から 「ただ神を見る」 と題して語られたメッセージより
□ 創世記19章30~32節 神のいない世界で
御使いが示したツォアルの町は安全な場所であったのに、ロトはツォアルに住むのを恐れて二人の
娘と山地の洞穴に移り住みます。ロトは恐れによって動かされたのです。確かに洞穴は安全だったか
も知れません。しかし、そこは今までソドムに妥協して生きてきたロトと、ソドムの生活しか知らなかっ
た娘たちによってつくりだされた閉鎖された社会でした。神を抜きにした閉鎖された社会では正しい
判断ができません。救い出された私たちもこの社会で生きていく時に、「神の言葉」と「同じクリスチ
ャンとの交わり」を生活の中心に据えなければ、正しい判断が出来なくなります。
二人の娘の性に対する意識も麻痺していたと言っても良いでしょう。姉は妹に言いました。「お父さ
んは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいませ
ん。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」と。年をとっ
た父親には この地域から私たちのために婿を探すことはもう出来ないだろうと判断したのでしょう。
そこで彼女たちは、父親によって子孫を残そうとするのです。閉ざされた洞穴の中では、神によって夫
婦に与えられた祝福が 相手を選ばず子孫を残すための手段としか考えられなくなっています。子孫
を残すということはロトが考えなければならないことなのに、なぜ娘たちがそれほど子孫のことを考える
のでしょうか。恐らく、夫になる男性を失った娘たちは、閉ざされた世界で夫を得る唯一の方法は
父親によって生まれた子によって子孫を残すことだと考えたのでしょう。極めて利己的で軽薄な判断
です。「神」と「神の言葉」から離れた人間の愚かさが明らかにされていきます。とにかく、彼女たちにと
って子孫を残す方法は人間の知恵ではそれしか考えられなかったのです。神のしもべアブラハムと別
れたロトとその家族は、ソドムの生活で大切なものを失っていたのです。
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。詩篇 119:105
□ 創世記19章33~38節 不信仰を凌駕する神
父親のロトによって子を得た二人の娘。姉に生まれた子はモアブ人の先祖となり、妹の産んだ子は
アモン人の先祖となります。やがて二つの民族はイスラエルを悩ませ続けることになります。モアブの王
は、約束の地カナンに入ろうとするイスラエルを占い師バラムによって呪わせようとし、モアブに入ったイ
スラエルの民はモアブの娘たちの神々を拝むようになっていきます。アモン人は、自分の子どもを神への
生贄とする宗教をつくり出し、イスラエルはその神を慕うようになっていきます。ソドムとゴモラの町は確
かに滅ぼされました。けれども、ソドムとゴモラの本質はロトの子孫の中に生き続け、神の民イスラエル
を誘惑していくのです。しかし、このモアブの地にルツが生まれ、ルツによってモアブ人の血が救い主イエ
スの系図の中に流れ込んでいきます。ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイ
にダビデが生まれ、このダビデの子孫に救い主イエス・キリストが誕生します。神は、父親との間に子孫
を残そうとした人間の軽薄な行為を凌駕して 人類を救う計画を着々と進められていかれるのです。
ですから、私たちが為すべきことはただ一つです。今も変わらず生き続け、私たちを誘惑してくるソドム
とゴモラに惑わされることなく、第一にすべきものを第一にしていくことです。そして、たとい失敗したとし
ても、私たちの失敗や軽薄さの中にさえも神の計画が着々と進展していることをはっきりと覚えることで
す。信仰者は自らの姿に失望してはならないのです。決して失望してはならないのです。そのような時
にこそ再び神に顔を向け、そのような者をこそイエス・キリストのゆえに赦し受け入れて下さっていること
を確信し、ただただ神を信頼して生きるのです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
ヘブル人への手紙11章6節
● 使徒の働き2章14~21節から 「救われた者はみな」 と題して語られたメッセージより
□ 使徒の働き2章1~4節 七週祭の出来事
ユダヤ教では農業に起源をもつ三つの大きな祭を大事にしてします。ペサハ(過越祭)、シャブオット
(七週祭)、スコット(仮庵祭)の三つです。エジプトを出る時、かもいに小羊の血を塗った家を主が通り
過ぎられたことを忘れないために定められた過越祭は大麦の収穫とともに始まります。大麦の収穫が
終わる頃、小麦の収穫とともに七週祭が始まります。ペサハの二日目から数えて7週と1日目、50日
目に始まることから、ギリシャ語の50番目という言葉をとって七週祭はペンテコステと言われています。
七週祭は、遊牧生活をしていたイスラエルが農耕生活に移るという大きな変化の中で、初夏に小
麦の収穫期を迎えたことが背景にありますが、ユダヤ人は「乳と蜜の流れる地」に入れられたことを感
謝する「土地取得の記念日」という意味をそこに重ね合わせていきました。それに加えて、「神の民」
として形成されるために、出エジプトから50日目に礼拝と生活の規範としての律法がシナイ山で与
えられたことから、「神から律法を与えたことを記念する日」という信仰的な意味づけをしていきました。
この日にはシナゴーグで十戒が荘厳に朗読されます。この七週祭に、新しい時代の始まりとも言える
聖霊降臨が起こるわけです。ほとんど強調されませんが、聖霊降臨という出来事は救済史というコ
ンテキストにおいて理解する必要があります。イエスが十字架につけられた過越祭の後に訪れる、
「約束の地への入国」と「神から律法を与えられたこと」を覚えるペンテコステに聖霊が降臨するという
出来事が起こりました。イエスキリストの十字架の償いによって神の国に入れられた者たちは、神の
国の律法に生きるときに幸いを見いだします。その者たちに聖霊が注がれ、聖霊によって神の国の
民に相応しく律法に生きることができる神の民になっていくのです。ここに神の緻密な救いの計画を
見ることができます。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
このようなものを禁ずる律法はありません。 ガラテヤ 5:22~23
□ 使徒の働き2章5~21節 神の国は聖霊によって
皆が一つの所に集まっている時にこの出来事が起こりました。聖霊に導かれるままに一人ひとりが
外国の言葉で語り出したのです。七週祭のためにエルサレムに来ていたディアスポラのユダヤ人は、
自分たちが住んでいる国の言葉で語るのを聞いたのですから、それは驚きだったことでしょう。しかし、
彼らの語っている言葉が理解できないユダヤやエルサレムの人々にとっては、酒に酔っているとしか思
いようのない出来事でした。ペテロはこのような人たちに、ヨエルの預言した通りに終わりの時代が始
まったのだと語ります。
マラキを最後に、預言者も現れず神の直接的な介入もないまま、イスラエルは羅針盤を失った船
のようにさ迷っていました。このイスラエルに、主の名を呼ぶなら溢れるように神から聖霊が注がれると
いう朗報がもたらされたのです。大切なことは、120人の弟子たちに聖霊が降りたという出来事では
ありません。その出来事が証言している本質です。それは、数十日前に イエスの十字架に始まった
神の救いが、ペンテコステを経て完成へと向かっていくということです。
救われた者は神の国に生きる者であり、神の国に生きる者は神の国の律法によって生かされる者
です。しかし、イスラエルの中に律法に生きる力を見い出すことはできません。そのようなイスラエルに、
神は400年の沈黙を破って介入されたのです。預言者を通して語られた神の導きや警告を無視し
続けたイスラエルに、十字架による償いだけではなく、溢れるばかりに注がれる聖霊によって律法に生
きる道を開いたのです。聖霊によらなければ、誰一人として 神と隣人を愛する という神の国の律法
に生きることは出来ません。ペンテコステにそれが始まったのです。それは真の教会の始まりでもありま
す。私たちクリスチャンもまた、聖霊を注がれて終わりの時代を生きる神の民であることを忘れてはなり
ません。
あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
エペソ4章30節